たいていの音楽家がほのめかしはするものの、定義しようとはしない区別がある。呼吸しているレコードが好きだ、どこかに狂いのあるテイクこそ残す価値がある、完璧は死だ——誰もがそう言う。だが正面から訊かれて、感情を運ぶ傷と、ただの傷にすぎないものとを分ける線がどこにあるのかを言える者は、ほとんどいない。
アリエル・ポーゼン(Ariel Posen)には、それが言える。しかも一文で言ってしまう——ミスと不完全さのあいだには、大きな違いがある。役に立つのは、そのあとに続く部分だ。不完全さとはフィールやテクスチャーのことで、紙の上ではもっときれいに弾けたはずなのに、その瞬間にはまさにそのセクションが必要としているものであるような何かだ、ということ。そして彼は、不完全さを追い求めているわけではまったくない、ということ。彼が追っているのは正しいものであり、最初の演奏を信じるようになったのである。
その場所へ、彼は遠回りをして辿り着いた。ポーゼンは何年ものあいだ、セッションとツアーのギタリストとして他人の背後に立ち、他人のレコードの上で、自分のものではない曲に仕えてきた——ウィニペグのナイトクラブの上階にあるスタジオで、終わったばかりのギグの真上で過ごした夜々も、そこに含まれる。ソロのキャリアは遅れてやってきた。本人の言葉によれば、それは意図してのことだった。そのあいだに彼は二種類のレコードをつくってきた。歌のレコード——直近では『Bannatyne』(バナタイン)——と、即興のソロ・ギターによる『Mile End』のセッションである。後者を彼は、スケッチではなくタイムスタンプと呼ぶ。
私たちは12の質問を送り、興味を惹かれたものだけを取り上げてほしいと頼んだ。彼は9つを選んだ。以下はそのやりとりである——彼の順序で、彼の言葉で。
私たちの誤りをひとつ、彼が正したから記しておく。私たちは彼に、『Bannatyne』はひとつの通りについてのレコードだ、と持ちかけた。そうではない。通りは、それ自体が主題というより、ウィニペグという街を包む大きなテーマとして働いているのだと彼は言う。この記事は、私たちではなく彼に従う。
すべてを結びつける糊
あなた自身の語るところでは、Bannatyneは働く場としての通りだ——真夜中近くにギグを終え、そのまま上階へ上がって明け方まで録音した、あの一区画である。帰郷をめぐるレコードなら、ひとつの人生のほとんどどこへでも向かえたはずだ。なぜこの一枚は、あなたが仕事を学んでいた年月に落ち着いたのだろうか。
Bannatyneは、音楽家としての若い時期の私を形づくった通りではありますが、通りそのものに焦点を当てるというよりも、ウィニペグという街を包む大きなテーマとして働いています。
このアルバムは、地元の人たち、私の人生で本当に近しい人たち、そしてあそこで育つなかで経験してきたことをめぐるテーマに、大きく焦点を当てています。すべてをひとつに結びつける糊を見つけたかったのです。
それに、とても独特な種類の名前でもあります。「Bannatyneって何?」と人に訊いてもらうことも、狙いの一部でした。もちろん、ありふれた種類の言葉ではありませんから。
それからこれは、あの通りとあの界隈を知っていて、この言及にささやかな喜びを感じてくれるかもしれないウィニペグの人たちへの、ちょっとした会釈のようなものでもありました。
長い年月がすべてを教えた
ナイトクラブの上階でのあの夜々は、ほかのアーティストのレコードのために、誰か別の人間のプロデュースのもとで費やされた。それは、自分のものではない曲に仕えるという長い修業である。それがあなたの耳に教えたもののうち、自分のレコードをつくることでは決して学べなかったはずのものとは何だろうか。
人のレコードで弾き、人のためにライヴでギターを弾いてきた長い年月が、私にすべてを教えてくれました。何から何まで、ステージで他人の後ろに立つことから、あるいはスタジオで録音しながら彼らがどう曲を組み立てるかを聴くことから、学んだのです。
私がアーティストとしての道のりをかなり遅くなってから始めた理由の大きな部分は——おおむね、ただ自然にそうなったという面を別にすれば——まだその準備ができていなかったからだと思います。あの長い年月が、音楽家としての今の私を形づくったのです。
ステージでの存在感の持ち方、曲のアレンジの仕方、曲の書き方、ステージでの演じ方、人との意思疎通の仕方、人と一緒にパートを組み立てる方法、あるいはパートの覚え方——そのすべてを、同僚と、友人と、そして自分のコミュニティとともに学びました。
ナイトクラブの上階のスタジオでのあの夜々は、とりわけ、私がセッション・ミュージシャンへと踏み出した最初の一歩でした。ただギターを弾くだけだった私は、人の曲の上で、彼らのより大きな構図のなかで役割を果たすための、練り上げられ、よく考え抜かれたパートを実際に弾くようになったのです。
それは何年にもわたる学びで、あの時期には本当に感謝しています。
人のレコードで弾き、人のためにライヴでギターを弾いてきた長い年月が、私にすべてを教えてくれました。
すべてはつながっている
あなたは二つの世界を組み合わせ、「好きなときにどちらの方向へも寄っていく」と語ってきた——ソングライターだけでも、ギタリストだけでもなく、その両方だと。その自由は、曲ごとに行使されなければならない。ある日にどちらへ寄るかを実際に決めるのは何なのか。そして、あなた自身の直感に逆らって、曲のほうが選択をしてしまったことはあるだろうか。
いいえ、私にとってはすべてがつながっています。ソングライターでありながらギター奏者でもあることはできます。両者は手を携えているのです。
結局のところ、創作モードに入ってアーティストの帽子をかぶっているとき——いや実際には、アーティストのモードにいないときでさえ——私はいつも、ただ大きな構図のことを考えています。それはたいていの場合、曲であり、私たちが取り組んでいる最終的な音楽作品のことです。
ですから、曲に取り組んでいるからといってギターという要素を考えていないわけではありませんし、ギターを弾いているからといって曲という要素を考えていないわけでもありません。
両者は互いに手を携えていて、私の脳のその二つの部分は一緒に働いています。ギターは私にとって、音楽的なアイデアを外へ出すための道具です。だからこそ、ソングライターとしての目標を達成する助けとして、特にそれを使っているのです。
タイムスタンプとしてのレコード
『Mile End』のレコードは即興で、つまりひとつのフレーズは、ふだんの裏づけを何ひとつ持たないまま、自分の居場所を勝ち取らなければならない。仕えるべき歌詞はなく、前もって合意された構造もなく、もっとよく書き直す二度目の機会もない。その状況で、あるフレーズを残す価値があると、あなたに決めさせるのは何だろうか。
あのレコードは、私にとってまさにタイムスタンプを体現するものです。即興のソロ・ギターのレコードはずっとつくりたいと思っていましたし、音楽をつくることの多くの部分は、レコードがタイムスタンプとして働くのだと認めることにあります。
戻っては自分のやっていることを変えつづけ、いじりつづけていれば、厳密に言って、自分のヴィジョンに落ち着くことは決してありません。際限なくいじることができてしまうからです。
だから私は意図的に、あのレコードを、その瞬間のなかにいて、そこに在って、反応し、起きていることにただ身を委ねるものとしてつくりました。
それがあのレコードの魅力だと思います。その瞬間に、その特定の日に、その特定のスタジオで、その特定の2時間なり何なりの枠のなかで起きていたことの、偽りのない表現です。それは本当に聞こえてくると思います。
数か月かけて録音された、隅々までプロデュースされたレコードでは、その要素が失われてしまうことがあります。これはまったく別のもので、そういうやり方でつくることが私にはとても重要でした。
戻っては自分のやっていることを変えつづけ、いじりつづけていれば、厳密に言って、自分のヴィジョンに落ち着くことは決してありません。際限なくいじることができてしまうからです。

大きな違い
『Headway』が出たとき、あなたは「完璧な不完全さ」と、それが音楽に加えるものについて語った。『Bannatyne』では「耳に聞こえる傷つきやすさと緊張」を、そして磨き上げられていない音を求めた。この二つには5年の隔たりがあり、同じ方向を指している。部屋のなかで、選択のその瞬間に、感情を運ぶ不完全さと、ただのミスにすぎないものとを、あなたはどう見分けるのだろうか。
ミスと不完全さのあいだには、大きな違いがあります。不完全さとは、むしろフィールであり、テクスチャーであり、何かの弾き方のことだと私は考えています。紙の上では、技術的にはもっときれいに、あるいは別のやり方で弾けたはずなのに、特定の曲やセクションのその瞬間には、必要なものをちょうど備えていて、完璧であるような弾き方です。
不完全さを追い求めているわけでは、かならずしもありません。私がいつも追い求めているのは、そのとき正しいものが何であれ、それです。そしていつでも、自分にできるかぎり最良の演奏と歌を目指しています。けれども、パートがうまく働いているのなら、死んだ馬を叩きつづけても意味がないこともあります。壊れていないなら、直すな、というやつです。
こういうことについては、あまり深く考えすぎないようにしています。レコードをつくればつくるほど、100パーセント完璧で、それでいて魂のこもっていないものにするためだけに何かを100万回もやり直すということに、頼らなくなっていると感じます。
本当に、ただ最初の直感に頼っているだけです。そして今の私には、最初の演奏がいちばん重要なのだと感じています。
ミスと不完全さのあいだには、大きな違いがあります。
余地はたっぷり残っている
バリトンは、あなたのギターを、ふだんはほかの楽器が占めている音域まで引き下ろす。それは、ほかの全員が何を弾けるかという計算を変えずにはおかない。低域があなたのものになるために、まわりの音楽家たちは何を手放さなければならなかったのか。そしてあなたは、何を返そうとしているのだろうか。
手短に言うと、私はローチューニングやバリトン・チューニングを、標準のスケール長のギターでやっています。つまり、27インチや29インチのスケール長のギターを使えば少しベースのような音になりはじめるのに対して、ギターはあくまで——もっといい言い方が見つかりませんが——ギターのように鳴る、ということです。
正直なところ、これはベース奏者やほかの楽器奏者と私とのあいだで、話題にのぼったことすらありません。余地はたっぷり残っていますし、ほかの楽器とぶつかることは決してないからです。
それに、私たちはたいていスリーピースで演奏しますから、音の面で全員が自分のことをやれる空間は十分にあります。
別の声を持つこと
『Bannatyne』の二曲には、もうひとりの歌い手が加わっている——「Empty-Handed」のダラス・グリーン(Dallas Green)、「More Me With You」のキャスリーン・エドワーズ(Kathleen Edwards)だ。どちらもひとりで歌詞を担える作家であり、だからその選択は能力の問題ではありえない。自分でやるべきではないと決めた曲のために、あなたは別の声に何を求めるのだろうか。
自分の音楽でほかのアーティストとコラボレーションすることは、ずっと避けてきました。名前を添えたいというだけの理由で、誰かを自分の音楽に無理やり引き込みたいと思ったことが一度もなかったからです。でもこのアルバムでは、それが理にかなう瞬間が、本当にいくつかありました。
まず「Empty Handed」では、サビの歌い回しからして、そこにダラスの声がもう聞こえていたのです。私の歌い方に何か問題があったわけではないのですが、誰かほかの人に一緒にやってほしかったのです。最初から彼の声が聞こえていて、ありがたいことに彼は友人で、とても乗り気でやってくれました。そうしてくれたことに、本当に感謝しています。
「More Me With You」は、本当にデュエットにしたかった曲です。私の連絡先リストのなかで、キャスリーンは最初に浮かんだひとりでした——彼女もまた友人です——そして彼女が引き受けてくれたことには、信じられないほど感謝しています。
彼女が持ち込んでくれたのは、もともとシンプルな曲に対する、とてもシンプルで美しいアプローチでした。
ですから、何がはまるか、何が理にかなうか、ということなのです。バッキング・ヴォーカルの多くは自分で歌います。ほかの人に歌ってもらうこともありますが、誰かを招き入れるというのは、何よりも別の声を持つということであり、同時にその人をアーティストとして、協働のなかで輝かせるということでもあります。
私が求めているものについていくつかメモを渡すと、彼らはそれを受け取って、あとはただ自分のやり方でやってくれました。それが、彼らがアーティストであるということです。それが、彼らの直感が表に出てくるということです。そしてそれこそが、コラボレーションの肝心なところなのです。
それが、彼らがアーティストであるということです。それが、彼らの直感が表に出てくるということです。そしてそれこそが、コラボレーションの肝心なところなのです。
隠すべきものは何ひとつない
あなたは自分のアルバムの完全な採譜とタブ譜を、『Mile End』も含めて販売している。それは、ソロの正確な仕組みを、望む人なら誰にでも手渡すということだ。たいていの奏者は、半ば本能的に、それを守ろうとする。録音されたパートを、ほかの人が弾けるように書き出してしまったとき、あなたにとってそのパートの何が変わったのだろうか。
2026年にゲートキーピングなどというものはありませんし、厳密に言えば、いつの時代にもあるべきではありません。
曲を覚えようとしては、覚えたい曲やソロのすべてに楽譜かタブ譜があればいいのにと願っていた、十代の、あるいはもっと小さな子どものころの自分を思い浮かべます。
そして大人になった今でも、私自身がそう願っていたのと同じように、そういう情報があればいいのにと願っている人たちみんなのことを、ただ思うのです。それなら、人がこの音楽を弾いたり、自分で試してみたりできるように、手に入る状態にしておくほうがいいのです。
隠すべきものは何ひとつなく、守るべきものもありません。この曲たちを、人に弾いてほしいのです。音楽とは、分かち合い、祝うことなのですから。
それが、私の曲からリックやソロやコード進行やリフを覚える助けになるのなら、私が望むのはそれだけです。
最後の曲として
「Bannatyne」はレコードの最後に置かれ、アルバムの名前を背負っている。閉じる曲に預けるには、それはかなりの重さだ。この曲は、レコードが何のためにあるかを語る一曲になったことでその題を獲得したのか、それとも名前が先にあって、曲のほうがそれに育っていかなければならなかったのか。
いいえ、曲のテーマが先にありました。「Bannatyne」は、ある場所を引き合いに出したいと思った箇所の、通りすがりの歌詞にすぎなかったのです。
この名前の格好いいところは、さっきも言ったように、独特で、ほかとは違うことです。ウィニペグと言うより、あるいはもっと特定の場所を名指すよりも、そちらを使いたいと思いました。もう少し含みのあるものにしたかったのです。
アルバムの曲を選び、すべてが仕上がって、レコードのペース配分について考えはじめたとき、サビと曲そのものが、最後の曲として本当にしっくりきました。いい締めくくりに感じられて、そのまま行くことにしたのです。
聴く
公式サイト: arielposen.com
写真 Josh Kirschner。
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