チェロは「じつに見事な物真似の名手」だ、とピーター・グレグソン(Peter Gregson)は言う——合唱にも、フルートにも、ギターにも、「ありとあらゆるもの」にも化けさせられる、ただ一つの楽器。彼の仕事のモットーとしてふさわしい言葉である。セルフタイトルのアルバムで彼が自らに課したのは、制約のように聞こえて、ふたを開ければ自由だったという規律だ。すべてをチェロだけから築くこと——一つの楽器をモジュラー・システムに通し、あらゆる電子的なテクスチャーが、根のところでは、いまなお弓で弾かれた弦であるようにすることである。
グレグソンは英国のチェロ奏者にして作曲家であり、ドイツ・グラモフォン(Deutsche Grammophon)で録音し、近作はデッカ(Decca)から発表している。2018年、ドイツ・グラモフォンは彼を『Recomposed』シリーズに招き、バッハ(Bach)の無伴奏チェロ組曲——この楽器のレパートリーの頂点——の再構想を委ねた。彼はそれをAIRスタジオで、自身のチェロ、五本のチェロのアンサンブル、そしてアナログ・シンセサイザーのために作り直した。『A Little Chaos』から『Bridgerton』まで映像のためにも書いてきた。2025年にデッカから出たあの同名アルバムは、彼が「言葉のない歌」と呼ぶ作品を集めたもので、彼自身以外の誰にも従っていない。彼の答えは、質問を送ってから数週間後、マネジメントを通じて書面で届いた。以下はその対話である。
「音楽はそれ自身の時間のなかで生き、呼吸しなければならない」
ひとまとまりの作品はどれも、ひとつの世界を提案する——聴き手が、しばらくのあいだ立ってみるよう招かれる場所を。あなたが音楽で聴こえるようにしようとしているのは、どんな世界なのだろうか。そして、その内側の空気を、あなたはどう描写するだろうか。
音楽はそれ自身の時間のなかで生き、呼吸しなければならないと思う——冷めた計算で未来を予測しようとしてはならないし、過去に居座ってもならない。だから私の音楽の内側の空気は、生きていて、現在のなかにあってほしいと願っている。
あなたの音楽は、その正反対のために設計された時代にあって、忍耐を求める。その遅さは美学上の好みなのか。それとも、静かな抵抗の行為に近い何かになっているのだろうか。
私はこういう自分の音楽を2006年から作り、2008年からリリースしてきた——つまり、大きく言えばソーシャルメディア以前の世界、まちがいなくストリーミング以前の世界だ。当時の美学は一種の発展したミニマリズムだったと思うが、それがストリーミングで、いわば偶然にかなり成功してしまったために、タイムカプセルに閉じ込められた。けれど、いまそれは変化しつつあると思うし、それは素晴らしいことだ。先ほど言ったように、音楽はそれ自身の時間のなかで生き、呼吸し、それ自身の時間について語らなければならない——そうでなければ、それはいったい何をしているのか。だから変化の到来を感じているし、それがどう展開していくのか、楽しみでならない。
「チェロはじつに見事な物真似の名手だ」
あなたのモジュラー・システムにはオシレーターがない——入っていくのはチェロだけで、だからあらゆる電子音は、根のところでは、なおチェロである。その規律に、あなたを引き寄せたものは何だったのか。ただ一つの声に自らを閉じ込めることは制限に感じられるのか。それとも、自由が実際に住んでいるのはそこなのだろうか。
チェロはじつに見事な物真似の名手だ——ブリテン(Britten)の無伴奏チェロ組曲を見ればいい。彼はチェロのためにじつに見事に書き、それを合唱に、フルートに、ギターに、ありとあらゆるものに変えてみせた——想像力に富み、豊かな表現力にあふれて。チェロ奏者である私たちは、疑いなく、この上ないレパートリーに恵まれている。だが、だからといって、それが成長を止めるべきだということにはならない。チェロそのものが技術的進化の産物であり——すべての楽器がそうであるように——音楽は、さらなる発展を促すまでに育ってきたのだ。
エレクトロニクスには長いあいだ魅了されてきた。組み込みはじめたのは、たしか十四歳の頃だっただろうか。だが続けるうちに、それがいつも後から足されたもの、どこか後付けのように感じられる地点まで来てしまった。だからセルフタイトルのアルバムでは、すべてをチェロから生み出したかった——そしてモジュラーというアプローチは、その美学とじつによく噛み合ってくれたんだ。
選びえたすべての声のなかから、あなたはチェロを選んだ——そして、とどまりつづけてきた。言うべきことを言わせてくれるのは、ほかならぬチェロの何なのだろうか。
いい問いだ。楽器を演奏する人なら誰でも同じことを言うと思う——それは自分の声の延長のように感じられるのだ、と。
楽器はそれ自体が高度に進化したテクノロジーであり、クラシック音楽はつねに機械と隣り合って生きてきた、とあなたは指摘してきた。あなたにとって、楽器と機械の境界線はどこにあるのだろう。そもそもその区別は、聴き手にとって重要なのだろうか。
重要であるべきではないと思う。道具は道具だ。大事なのは、それで何をするかだ。伝統的なクラシックの楽器のための味気ない音楽はいくらでもあるし、エレクトロニクスのための深く情感のこもった音楽もいくらでもある。
「言葉のない歌」
最新のアルバムは「言葉のない歌」と評されてきた。言葉のない歌は、言葉ではかえって邪魔になるような何を語れるのだろうか。言語が止まるとき、何が始まるのか。
「言葉のない歌」の美しさは、何を感じるべきか、何を考えるべきかを指図しないところにあると思う。だからそれは、旋律に導かれた音楽を差し出すための素晴らしいかたちなのだ——近づきやすく、開かれていると感じられるように構造化されながら、聴き手自身の世界のなかに住まうための余白を残している。幸せな気分なら、そこに楽観を見つけるだろう。沈んでいるなら、より暗い側面が聞こえてくる。少なくとも私にとっては、それこそがインストゥルメンタル音楽を本当に新鮮に、生き生きと保ってくれるものだ。
音楽が人を動かすことは明らかだ——だが、その仕組みは謎めいている。チェロのひとつのパッセージが誰かに届き、その人のなかで何かが動くとき、実際には何が起きていると思うだろうか。
それはとても深いところに根ざしていると思う——音楽は文字どおり「琴線に触れる」のだ。多くの物事と同じで、こちらが開かれてさえいれば、つながりはいつでもそこにある。とりわけチェロは、きわめて自然な、人間的な音域を占めている。だから私たちにはとても自然に感じられる——人間の声とほぼ同じ音域に収まっているのだから。
ある曲に聴き手が涙するとき、その感情は誰のものなのだろう——あなたのものか、聴き手のものか、それとも音楽そのもののものか。作曲家は感情を意図できるのか。それとも、感情が起こりうる部屋を建てることしかできないのだろうか。
私の音楽には私の感情が入っていると思う。だが私が試みているのは、聴き手が自分の感情を抱くための空間を作ることであって、私の感情を体現させることではない。
「聴くことがいまも生きている、数少ない聖域のひとつ」
それがただ、消えてなくなったところを想像してみてほしい——あなたの音楽だけでなく、音楽のすべてが。音楽のない世界は、実際には何を失うと思うだろうか。いま言えていることのうち、何が言えなくなるのだろう。
音楽は、聴くという芸術を生かしつづけていると思う。私たちはますます、叫び、シェアし、しゃべり、発信する世界に生きている——誰もが、等しく簡単に拡散できる意見を持っている——のに、誰も聴き方を知らないように見える。音楽は、聴くことがいまも生きている数少ない聖域のひとつであり、それを守ることは不可欠だ。幼い子どもたちへの音楽教育がこれほど重要なのは、そのためなんだ。小さなチェロ奏者やオーボエ奏者だらけの世界を作るためではなく、聴くことを学び、自分より大きな何かの内側にいることを学び、そして、大事な存在であるためにいちばん大きな声である必要はないのだと学ぶために。
私たちはますます、叫び、シェアし、しゃべり、発信する世界に生きている——誰もが、等しく簡単に拡散できる意見を持っている——のに、誰も聴き方を知らないように見える。
聴き手はしばしば、作曲家には決して見えないかたちで、ひとつの曲とともに生きる——悲嘆のなかで、眠れない夜に、つらい一年のあいだ、人生の転機に。あなたの音楽が人々の生のどこへ行ったのか、これまで人々は何を語ってくれただろうか。
ええ、その通りだ——ただ、作曲家もまた人間であり、聴き手には決して見えない人生を生きている。ひとつ、際立っていて、これから先もずっと私とともにあるだろう物語がある。娘さんが生まれたとき私の音楽をかけていた、と書き送ってくれた人がいて、それが、まったくの偶然に、私の娘が生まれたのと同じ日だったのだ——それで私たちは素敵なやりとりを重ね、その日が来るたびに、たがいの子どもの誕生日を祝い合うようになった。逆の側もある。人生の終わりに、音楽が心を鎮めるものとして使われることも。こうしたものは本当に個人的な瞬間であり物語であって、私には明かさずにおく義務があると感じている。人々は音楽のなかに、どこか告解室に近づいていくような平安とつながりを、本当に見いだすのだ——どうにも、うまく言葉にしがたいのだが。
慰めるために作られる音楽があり、かき乱すために作られる音楽があり、どちらかを選ぶことを拒む音楽がある。あなたの音楽は、その先にいる人に何を負っていると感じるだろうか——慰めか、誠実さか、寄り添いか、それとも別の何かか。
私の音楽は、誰に対しても何の借りもない。聴き手が私に何の借りもないのと、まったく同じことだ。双方が、それぞれのいる場所で、たがいに歩み寄って出会わなければならない——デートのようなものだ!
「バッハはいまもバッハである」
バッハの無伴奏チェロ組曲を「再作曲」することは、崇敬の行為であると同時に、侵犯の行為でもある。三百年前の、他人の作品の内側でそれほど長い時間を過ごしたことは、あなたに何を教えただろうか——バッハについて、そして自分自身について。作品を敬うことと、作品を変えることの境界線は、どこにあるのだろう。
面白い問いだ。まず言っておくと、何をしようと、どこまで押し進めようと、バッハのDNAは揺るがない。構造的に壊せないという点で、比類なく強靭だと言ってもいいと思う。批評家はしばしば冒涜だと言ったし、そう思うのは彼らの自由だ。だが、バッハ自身も、その同時代人たちも、まさに同じことをしていたのを人々は忘れている。実際、何世紀にもわたって、多くの作曲家がそうしてきた——それでどうだろう、バッハはいまもバッハだ。私の『Recomposed』も、バッハの名声を損なうことなく、まったく心安らかに生きていけると思う(笑)。
あの仕事は、音楽における構造と比率について、じつに多くを教えてくれた——このことを語った、重厚だが魅惑的な本に『Gödel, Escher, Bach: An Eternal Golden Braid』(邦訳『ゲーデル、エッシャー、バッハ』)がある——フレーズをどう切り出しても、どう引き伸ばしても、そこに要求されるのは、自分ひとりでひねり出せるどんなものよりも、なお強い構造なのだ。しかも、この上なく単純に響きながら、いまなお技術的に難しい音楽を書いたというのは、驚くべきことだ。バッハが独奏チェロ一本ですべてを表現できたところを、私は六本を使った——それも教えられたことのひとつだ。バッハの組曲は、チェロ奏者のレパートリーの礎であり、最高峰でもある。取り組んでいたあいだじゅう、その内側に住んでいたことは、毎日それを思い出させてくれる輝かしい時間だった——美しい日の出と日没とともに目覚めるような。実際、まったく色褪せることがないのだ。
「音楽が生きている音」
擦れ、息づかい、弦の上の弓の摩擦、奏者の身体——あなたの作品はしばしば、よりクリーンなプロダクションなら消してしまう音を残している。なぜ、そうした不完全さを守るのだろう。完璧な音が失ってしまう何を、それらは運んでいるのか。
それらは、音楽が生きている音そのものだからだ。消してしまえば、それは一種の、音楽のインスタグラム化みたいなものだ。考えてもみてほしい。料理系インフルエンサーほど清潔で完璧に整えられたキッチンを持っている人など、いないだろう。まったくありえない光景なのに、私たちはみなそれを見て、自分のキッチンに引け目を感じる。音楽は散らかった、ノイズだらけのものだ——手入れされたものではなく、表現するものだ——だから私はそれを残しておきたい。私が聴き、感じているものに、聴き手をできるかぎり近づけるために。
機械はいまや、数秒でもっともらしいインストゥルメンタル音楽を生成できる。息づかいや弓圧、人間の不完全さと意味のすべてが結びついているように見える芸術形式にとって——AIは脅威なのか、道具なのか、それとも、あなたの仕事とは単に無関係なものなのだろうか。
感情を分かち合い、物語を語ることが仕事であるなら、AIは脅威ではない。AIは驚くべきことをいくつもやってのけるが、感情も、視点も持っていない。いま私たちが途方もない規模で目にしているのは、人々がそのつながりを渇望している姿だと思う——ヤンキー・スタジアムのジェイ・Z(Jay-Z)を見ればいい。世界中で起きている、ほかの巨大スケールの音楽イベントを見ればいい。むろん、それは音楽業界の私の持ち場に直接関係する話ではないが、人々が、自分にとって意味のある何かを体験したがっているのは確かだと思う。コンピュータがアルゴリズミックなBGMを量産するのを眺められるように、データセンターが見学ギャラリーを開いてチケットを売り出すとは思えない——そう言っておこうか。
「カップのなかの余白」
忍耐の上に築かれた音楽では、静寂と余白が実際の仕事をする。静寂は、音にできない何をするのだろう。弾くのをやめる瞬間を、あなたはどう決めているのか。
音楽が呼吸するための余白を残さなければならないし、聴き手の側にも、それを自分の生活のなかへ引き受けて解釈していくための余白が要る。一杯のコーヒーのようなものだ——マグを縁まで満たすわけにはいかない。椅子まで運ぶときにこぼれてしまうから。余白があってはじめて、それを自分の暮らしに持ち込み、心地よく付き合うことができる。だから私は、カップのなかに余白のある音楽を作ろうとしているのだ。
あなたは、正しい音を探すことを語ってきた——ときには、音高や和声が入ってくるより前に。それは、作曲が通常教えられるやり方のほとんど正反対である。それでは、あなたにとって曲は実際、どこから始まるのだろうか。テクスチャーか、感情か、イメージか、それとも一つの問題か。
音とテクスチャーには強く惹かれるが、無理強いはしない。旋律は、チェロやピアノやシンセを気ままに弾いているうちに生まれることもあれば、興味を引く音がまず見つかることもある——私のスタジオには、ずいぶんたくさんの楽しいおもちゃがあるのだ。リバーブやディレイから、シンセサイザー、ハーモナイザー、ヴォコーダーまで、ありとあらゆるものが。曲の書き方に正しい道と間違った道がある、という考えには、あまり与しない。それはきわめて個人的な表現であって、どんなかたちで現れようと、それが正しいやり方なんだ。
最新のアルバムを、あなたは、自分の内側で実際に鳴っている音にもっとも近づいた一枚だと語っている。その理想の音——つねに追いかけながら、おそらく完全には届かない、あの音——を、描写できるだろうか。
私にとって理想の音とは、思わず触れたくなる音だ——美術館に掛かった、大判の油彩画のような。
あなたは映像のために音楽を書いてきた——『A Little Chaos』から『Bridgerton』まで——そして、自分以外の誰にも従わないアルバムも作ってきた。音楽は、他人の映像に仕えるときと、それ自身が見つめられるものであるときとで、違う振る舞いをするのだろうか。
映像のために音楽を書くとき、こちらは他人の物語に加わり、それを語る手助けをしようとしている。物語のなかで、よくても三番目に重要な要素だ。撮影、脚本、画面の上の演技——これらはみな食物連鎖の上位にいる。しかも音楽は最後に載せられるものだから、決定的で、張りつめた時期に加わることになる。そこから教えられたのは、音楽とは何よりもまず聴くことだ、ということ——そして音楽は、どうにかして、映像に耳を澄まさなければならないということだ。
「私にとってのセラピー」
明日、あなた自身の人生から音楽が消えてしまったら、それなしのあなたは、いったい誰なのだろう。何かを作ろうと腰を下ろすたびに、あなたが本当に答えようとしている問いは何なのか。
私の音楽は、まちがいなく私にとってのセラピーだ。自分自身の延長であり、無防備でいることがいちばん心地よくいられる場所でもある。だから、それについて語るとなると、少しばかりダンスのような身のこなしが要る——答えはきっと「ただ音楽を聴いてくれ」に尽きるのだから——ただ、その瞬間には、ある曲が何についてのものなのか、自分でもわかっていないことがある、というのも確かだ。それは思考と感情を処理するひとつの方法のようなもので、明晰さは数か月後、数年後にやってくることもある。
私たちは、無限の、ほとんど使い捨てに近い音の時代を生きている。ひとつの曲を仕上げるとき、その瞬間より長く生き延びてほしいと、あなたが静かに願うものは何だろうか。
遺産のために書くのは賢明ではない。現在の瞬間を取り逃がしてしまうからだ。できるのは、その瞬間に正しいこと、書かれたその日の自分の感情を正直に映すことだけだ。それ以外はすべて作りものであり、私たちは誰もが、原初のレベルでそれを嗅ぎ分けられると思う。
音楽家としての進歩を、あなたはどう測っているのだろう——そもそも測るのだとすれば。「上達」は感じ取れるものなのか、ひそかに追いかける指標なのか、それとも、向上などはじめから要点ではなかったのだろうか。
測れない。減量や筋肉の成長、走る速さのように、定義できるものではないのだ。Spotifyはストリーミングの数字という偽の「証明」を与えてくれたが、私にとってもっとも深く響いた音楽のいくつかは、再生数の少ないものだ。では、その音楽は成功の度合いが低いのか。そうではない——その音楽は、私のいる場所で私と出会い、私に語りかけてくれたのだから。

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公式サイト: petergregson.co.uk
写真:Meredith Truax(Key Music Management提供)
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