ひとりの人間、一本のアコースティック・ギター、そしてバンドがまるごと同時に鳴っているとしか聞こえない音——トミー・エマニュエル(Tommy Emmanuel)が生涯をかけて磨いてきたのは、この芸当である。しかも、それは錯覚ではない。オーストラリアの田舎で、ひとりの少年がラジオから流れてくるチェット・アトキンス(Chet Atkins)を聴き、たった一人の奏者がこれだけの音を出しているとは信じられなかった。数十年後、アトキンスは憧れの存在から友人へと変わり、かつての少年に、いまも名前のうしろにつけている称号を与えた——CGP、Certified Guitar Player。アトキンスが生涯にごく少数のギタリストにしか授けなかった栄誉である。2026年7月27日、エマニュエルはその一生ぶんの演奏を、ヴィリニュスのアダム・ミツキェヴィチ図書館(Adam Mickiewicz Library)の中庭へ携えてきた。野外で、右手の動きが見えるほど近い場所へ。
ルーパーもなければ、ずらりと並んだペダル類もない。ステージに置かれたペダルはチューナー一つきりだ。そして彼自身の言葉によれば、「私が一緒に演奏しているバンドは、この両耳のあいだにいる」。旋律も、リズムも、ベースも、パーカッションも、すべてが一本の楽器と十本の指から出てくる——右手の親指が音の底でベースラインを刻みつづけ、その上で手が歌う。その演奏の喜びの背後にあるのは、一篇のフォーク・バラッドのように読める人生だ。二台のステーションワゴンでオーストラリアじゅうを走りまわった子ども時代、6歳ごろにはもう、入場料を払った客の前で弾いていたこと。11歳での父の死。本人が「どうしようもないアルコール依存症で、薬物中毒だった」と淡々と語る年月——それはとうに過去のものだ。そして71歳、10年ぶりのソロ・アルバム『Living in the Light』では、ついにギターの陰から出て、歌っている。
ヴィリニュス公演を前に、私たちはトミーに質問をまとめて送った。彼は、たいていのことをそうするのと同じやり方でそれに答えた——レコーダーを手に取り、ただ話したのである。以下に続くのは、ごく軽く手を入れただけの、その急がない声そのままの対話である。
「両耳のあいだのバンド」
少年のころ、あなたはラジオではじめてチェット・アトキンスを聴いた——すべてを同時に弾いているとしか思えない音だった。年月を経て彼は憧れの人から本当の友人になり、あなたがいまも名前のうしろにつけている「Certified Guitar Player」の称号まで授けてくれた。そのすべてのなかで——受けた影響も、友情も、あの三文字も——演奏のために腰を下ろすたび、あなたがもっとも意識して携えているものは何だろうか。
ショーをやるときは、自分より前を歩いてきた人たちに敬意を払おうとしている。できるかぎり自分らしくありたいとも思っているし、自分のショーには自分の曲をできるだけ多く入れようとしている。でもステージでは、私たちのためにすべてを切り拓いてくれた人たちの話をするんだ。自分より前を歩いてきたすべてのアーティストに恥じない人間でありたいと思っている。
あなたのステージにあるペダルはチューナーだけだと、そして「私が一緒に演奏しているバンドは、この両耳のあいだにいる」とも、あなたは語ってきた——旋律も、リズムも、ベースも同時にあなたであり、右手の親指が音の底でベースを刻んでいる。一曲の奥深くに入り込んでいるとき、それは小さなバンドを率いているような感覚なのだろうか。それとも、呼吸と同じくらい自動的に、あなたの意識を抜きにして手が勝手にやってのけるひとつの動きへと、すべてが融け合ってしまっているのだろうか。
ソロのショーをやるときは、ステージの上をごく単純にしている。ルーパーのような電子的な助けに頼りたくないからだ。使えないわけではない。使わないことを選んでいるのだ。いま演奏している人たちのなかには、機材を使いすぎて、機材に頼りすぎている人が大勢いる。旅をしていると、機材はしょっちゅう壊れる。すべてが完璧に動いていたときの楽しさは消えてなくなり、あわてて走りまわりながら、それでもできるかぎり良くて面白いショーにしようとするはめになる。だから私は、演奏に出ていくときには自分のレパートリーが絶対に崩れないこと、自分の持てるかぎりの力でそれを演奏できること、そして誰もが楽しい時間を過ごせることを、徹底して確かめておくんだ。
「聴衆はごまかせない」
あなたはどのショーでも相当の部分を即興で弾き、安全策をとることをつねに拒んできた——聴衆はごまかせない、だから自分自身もごまかさない、とたびたび語ってきた。いまなら、演目を固定して流していくこともたやすいはずだ。それでもなお、その危うさを生かしておくことが、あなたにとってこれほど大切なのはなぜだろうか。安全に弾いてしまったら、失われるのは何なのか。
即興は大好きだ。でも同時に、人は演奏者が自分を追い込むところを見たいのだと思っている。危ういところまで踏み出していくのを、本当に見たいんだ。ステージであまり安全に弾きたくはない。聴衆と一緒に楽しむのは好きだが、同時に、ステージの上ではその瞬間のなかに深く入り込んでいる。だから、もっと先へ行こうと、その晩の自分に何ができるのかを見ようと、うんと自分を追い込む。それが私を、ぎりぎりの縁に立たせてくれる。私はそれが好きなんだ。
ギターのことは少しのあいだ忘れてほしい——ある音楽が本当に誰かに届くとき、その人のなかでは実際に何が起きていると思うだろうか。そして客席全体が静まりかえるのを見るとき、そこで何が起きていると感じるのか。
いつ聴衆に、椅子へ深く背をあずけて、私のしていることをただ受け取ってもらえばいいのか——それは自分の直感で見きわめようとしている。聴衆の気持ちをやわらげようとしている。音楽の本当に内側にいる、と感じてもらおうとしている。この音楽は、聴いている人にとっての傷薬のようなもの、その人の薬なのだ。だから、聴衆の準備ができたと思える、ショーのちょうどいい場面で、それをきちんと手渡そうとする。ギターを弾いて人を感心させることが目的なのではない。しばらく行っていなかった場所へ、聴衆を連れていくことが目的なんだ。それはアーティストにとっても聴衆にとっても、良いことだ。
「驚きこそがエンターテインメント」
あなたが私たちに送ってくれた曲のうち二つは、まったく正反対の極にある。「Gdansk」——あのポーランドの港町で、船と港を思いながら書かれた、静かに流れていく曲。そして「Tall Fiddler」——全速力の疾走。ときにステージの上で数分しか離れていないのに、その静けさとその獰猛さのあいだを、あなたはどうやって行き来するのだろうか。それはあなたの何かをすり減らすのか、それとも、その落差こそが面白さなのか。
速く弾こうが、獰猛に弾こうが、やさしく弾こうが、私には何の違いもない。思いきり自分を解き放つこともできるし、気分は好きなときに切り替えられる。ただ、この二曲はどういうわけかうまく組み合わさるんだ。同じチューニングだからだ。「Tall Fiddler」はずいぶん前に書いた。「Gdansk」は3年ほど前だったか、そのくらいだ。二曲は並べるとしっくりくるし、こういうやり方を選んだ理由は、それが少しばかり予想外だからだと思う。聴衆の気分を、ふっと持ち上げてくれることもある。聴衆をたえず驚かせるためのやり方であり、驚きこそがエンターテインメントなのだ。
「Tall Fiddler」は、一緒にいるのがただ好きだった、とあなたが語るバイロン・バーライン(Byron Berline)に捧げた曲だ。だが、あなたはフィドル奏者をギターで讃えた——こちらがフレットで音を区切るのに対し、滑り、歌う楽器へ、六本の弦で応えてみせたのだ。この曲は、どこまでが人間としてのバイロンについてのものであり、どこまでが、彼のフィドルの音を追いかけるあなたなのだろうか。
バイロン・バーラインに会ったのは、カンザスのブルーグラス・フェスティバルでのことだ。なんて美しい人間なんだろう、そして誰もが彼を慕っているんだな、と胸を打たれた。それから彼が弾くのを見て、いやはや、この人は美しい自然の力そのものだ、と思った。そうやって私たちは年月をかけて知り合っていき、彼はずいぶん私を励ましてくれた。というのも、アメリカに来た初めのころ、私はブルーグラス・フェスティバルに出してもらえなかったからだ。ブルーグラスのアーティストだとは思われていなかった。でも実際には、それはただの肩書きで、ひとつの音楽のスタイルにすぎない。ブルーグラスを弾くのも、ロックンロールやジャズやファンクやブルースを弾くのも、私には同じくらい、自分の家にいるように感じられる。どれでもかまわない。ただの音楽だ。肩書きに縛られないようにしている。それまで、フィドルのスタイルのようなものを書いたことは一度もなかった。ブルーグラスの典型的なフィドル・チューンを思い浮かべてみれば、繰り返されるテーマがある。それが回ってきて、また回ってきて、それからブリッジがあり、気の利いた仕掛けがあり、ときには転調もあるが、そう頻繁ではない。それもまた、聴衆に何かを差し出すためのもうひとつのやり方だ——ゆっくりと熱狂へ積み上がっていって、最後の和音を叩きつけると、ばん、と照明が落ちる。そこで客席が悲鳴をあげる。全部、エンターテイナーであることの一部だ。それについて私に言えるのは、まあ、そんなところだ!
「音楽は、必要なときにやって来る」
音楽は世界を変えうる、という古い言い方がある——力ずくでではなく、人の考え方や感じ方を変えうるから、そして言葉がけっして届かない深さまで届きうるから、という意味で。人前で弾きつづけてきた長い年月を経て、あなたはそれを信じているだろうか。目の前の誰かを、一曲が本当に変えたと感じたことはあるだろうか——あるいは、あなた自身が変わったと。
まちがいなく信じている。ある種の曲は、耳にしただけで、すぐに感情がわいてくる。その音楽が、私たちの奥深くにある何かに届いているからだ——それは感情にかかわることだから、ふだんはいつも意識しているとはかぎらない何かなのだ。私たちは幸せでいたいのに、その曲はもしかしたら、自分の人生の、痛みを伴う部分についてのものかもしれない。だが音楽は私たちへの魔法の贈り物のようなもので、必要なときにこちらへやって来るのだと思う。ショーのなかで、わざとひどく単純なものを弾くことがある。だがそこが、聴衆が心のなかでこう言う瞬間なのだ——本当に聴きに来たのはこれだ、と。派手な花火のことではない。魂を聴きたい。いま、生きていることの温かさを感じたい。そしてそれは、音楽を通して手に入る。「Somewhere Over The Rainbow」を弾きはじめたころは、弾くたびに少しうまくなり、この曲についての自分の考えが先へ進んでいくのを感じた。だがそれ以上に、あの曲がどれほど美しいか、人々がどれほどあれを聴く必要があるかに気づいた。それは良いことだ。
10年ぶりのソロ・アルバム『Living in the Light』で、あなたはギターの陰から出て、何曲かで実際に歌っている。そのひとつ「Black and White to Color」を、あなたは人生が角を曲がって色を変えることだと語り、「『オズの魔法使い』(The Wizard of Oz)のドロシーみたいなものだ」と言った。長い年月、ギターを通してあれほど多くを語ってきたのちに、ついに本物の言葉と自分の声がほしくなったのは、なぜこのアルバムだったのだろうか。
『Living in the Light』の制作に入ったとき、時間はごくわずかしかなかった。録音もミックスも、全部あわせて4日で終えた。やっていて本当に楽しかった曲が二つある。ひとつは「Maxine」、もうひとつは「Ready For The Times To Get Better」。どちらも、ただ物語を語る曲なんだ。そして私自身も、そういうものだと感じている——私は本当のところ歌手ではない、語り部だ。ただ何か違うことをやってみたかった。それについて怖さはまったくない。自分がうまい歌手だなどと言ったことは一度もないし、実際うまくない。でも、一曲歌って、あなたに物語を語ることはできる。物語と曲が十分に良ければ、あなたが本当に楽しんでくれるといい。私はそう考えている。
音楽は無理強いできない、こちらへやって来て、こちらを通って流れなければならない、とあなたは語ってきた。近ごろ、旋律が実際にやって来るとき、あなたはどこにいるのだろう——ギターの前か、シャワーのなかか、まどろみのなかか。あなたは旋律を探しに行くのか、それとも、ただ用意を整えておいて、現れるにまかせるのだろうか。
近ごろは生活があまりに忙しいので、曲がやって来るのは、会場に入って機材をすべて運び込み、それから楽屋へ行ってギターを出し、弾きはじめたとき、ということもある。そのときにアイデアが浮かんでくるのだ。何年も自分のなかに残りつづけるアイデアもあって、そういうものには戻っていって、仕上げられるかどうか試してみることができる。曲の書き方がひとつしかない、ということはけっしてない。作曲家というのはいつも、何か書くに値することが起きるのを待っている。自分の身に起きること、出会う人たち、経験すること——それらが感情を生み、頭のなかに、自分の内側に、いくつもの像を結ぶ。いつも何かが起きるのを願っている。それだけは確かだ。

「自分の声のように鳴る」
世界じゅうのどんな楽器でも選べたはずなのに、あなたはキャリアを通じてオーストラリア製のメイトン(Maton)を弾いてきた。故郷への忠誠を別にして、あのギターの実際の音のなかに——その明るさ、その木材のなかに——オーストラリア的だと呼べる何か、ほかのどこでも得られない何かがあるのだろうか。
私はメイトンを弾き、メイトンとツアーをして、メイトンで録音している——本当に楽しい。そしてそれを1961年からやっている。最初のメイトンを手に入れたのがその年だ。たしかに私はお国びいきのオーストラリア人で、オーストラリア製の楽器を弾くのが好きだ。だが、愛しているギターはほかにもたくさんある。それでも、ピックアップとマイクのシステムという点で、メイトンと比べものになるギターは、ほかに一本も見つからなかった。ギターの音、ピックアップとマイクの音で、じつにいろいろなことができる。あらゆる種類の音を作り出せる。そして弾いていると、それはただ自分の声のように鳴るのだ。メイトンを弾いていると、家にいるような気がする。ギター選びについて言えば、それはあなた次第だと思う。手から離せなくなるギター、いつも弾いていたくなるギターを見つけなければならない。それがあなたにとって最良のギターだ。どこで作られたか、いくらするかは関係ない——そういうことはどうでもいい。自分のやりたいことが何でもできるギターが見つかったなら、それがあなたのためのギターだ。
自分の言葉で「どうしようもないアルコール依存症で、薬物中毒だった」と語る年月について、そして依存を断ち切ったことについて、あなたはとても率直に話してきた。ステージであなたがすることの多くは即興で、隠れる場所はどこにもない。依存を断ち切ったことは、あなたの弾き方を変えただろうか——当時のあなたはより大胆だったのか、それとも無謀だったのか。そしていま、あなたはどちらをより信頼しているのだろうか。
言えるのは、もう長いこと、酒も薬も断っている、ということだけだ。すこぶる元気で、自分の人生を愛している。それに、依存のただなかにいたときでさえ、ステージでは110%を出していたと思う。いつも自分の最高の演奏をしようとしていたし、どれだけもがいていても、いつも人々の力になろうとしていた。だがもう、もがいてはいない。心から幸せだ。ただ手放して、自分が采配を握っているのだと自分をごまかすのをやめたんだ。握ってなどいない。私はちゃんとその場に出ていって、できるかぎりのことをして、明日もまた同じことができるように、身体と心の世話をしようとする。
「自分たちが何をしたいかは、わかっていた」
あなたの父親は家を売り、家族を二台のステーションワゴンに詰め込んで、オーストラリアを横断する旅の暮らしへ全員を連れ出した——あなたは6歳ごろには、入場料を払った客の前でリズム・ギターを弾いていた。その年ごろの子どもの多くは、字の読み方を習っている。振り返ってみて、あの旅の子ども時代は、腰を落ち着けた子ども時代には与えられなかった何をあなたに与えたのだろうか。そして、何を代償にしたのか。
暮らしが苦しいなんて、私は知らなかった。そもそも何ひとつ持っていなかったからだ。私たちは自分たちに音楽の才があることに気づき、演奏したいと思い、家族として演奏したいと思った。下の二人は音楽をやらなかったが、私たち四人はやった。それが、いちばん下の私、それから兄のフィル(Phil)、姉のヴァージニア(Virginia)、そして兄のクリス(Chris)だ。だから、自分たちが大変な思いをしているなんて、まったく知らなかった。それに気づいてもいなかった。オーストラリアじゅうを旅してその土地を見て、ときどきショーをやっていた。でも金はろくに稼げなかったし、いつも一文なしで、いつも誰かが助けてくれた。大人の目から見れば、苦しい暮らしだったのだろう。とくに母と父にとっては。いいかい、人生では何もかもに値段がついている。いま私がここに座って、あんなふうにできていればよかった、金持ちだったらよかった、などと言うことはできない。悪いが、そういうふうにはできていない。私たちには、私たちの人生があった。そして自分たちが何をしたいかは、わかっていた。かなり恵まれていたと感じている。それは確かだ。
あなたの父親は1966年、あなたが11歳のときに亡くなった——移動する暮らしのすべてを、バンドを軸に組み立てた人だ。父親を失ったことは、ギターがあなたにとって意味するものを、どう変えただろうか。ギターは慰めになったのか、務めになったのか、それとも父のそばにいつづけるための手立てになったのか。
父のことが本当に好きで、近づこうと必死だった。だが父は心臓を病んでいて、長くはいられないだろうと、私たちはなんとなくわかっていた。ある晩、大きな心臓発作が来て、父はいなくなった。数日後、母がこう言った。「どうしたい? ここにとどまって、あなたたちはここの学校に通って、普通の暮らしをすることもできる。それとも、旅回りの一座を探して、また旅に戻ることもできる」。そして私たちは全員、また旅に戻りたいという点で一致した。だから、そうした。ただ、父がいないと勝手が違った。父がしていたことはあまりに多かったからだ。それでも、いちばん上の兄クリスが、下の私たちにとっての父親役になった。私たちはみなで身を寄せ合い、旅を続けた——本当にやめて、普通の学校に通わなければならなくなるまで。政府が、私たちのしていることに目をつけたのだ。母にこう告げた。「この子たちには普通の暮らしが要る。学校に通い、家を持たなければならない」。そうやって私たちは、旅の暮らしをやめさせられた。私は15歳で学校から逃げ出した。自分が何をしたいか、わかっていたからだ。そしていま、60年後の私はこうしてあなたに話しかけている。手には電話を持ち、また別の画面を眺めながら、この人生を愛している。
3分だけ弾いた一曲が、誰かのなかに何年も棲みつづけるかもしれない——散歩の途中で口ずさまれ、けっして忘れられない一夜に結びついて。そういうことを考えることはあるだろうか。音楽がそこまで深く届き、そこにとどまりうると知っていることは、たった一曲の弾き方を変えるだろうか。
本当に好きな曲を脳が取り込んでくれて、それから、いわばその脳から曲を再生できる——それは美しいことだと思う。美しいことだ。音楽は私たちの連れであり、友だちであり、慰めの場所であり、楽しさと喜びの場所でもある。中国のような国に着いてみたら、空港に私の曲を弾いている人たちが立っていた、というようなことが起きる。それには本当に驚かされる。信じられなかった。本当に魔法のようなことだ。音楽は人を結びつける。
音楽は私たちの連れであり、友だちであり、慰めの場所であり、楽しさと喜びの場所でもある。
「71は、ただの数字だ」
あなたはこの春に71歳になり、いまも『Living in the Light』を携えてツアーを続けている。そして、要点はただ楽しむことに尽きる、自分が楽しんでいれば聴衆も楽しんでいるのだ、とたびたび語ってきた。だが、あなたのしていることは身体的に厳しい——ボディを叩く打音、ハーモニクス、休むことのない親指。身体が以前より多くを要求してくるいま、それを単なる規律ではなく、喜びのままに保つには、どうすればいいのだろうか。
身体はたしかに、前より多くを要求してくる。残念ながら、昔できていたことのいくつかは、もうできない。それは受け入れなければならない——年を取るのは、意気地なしにはつとまらない。それは確かだ! だが私にとって71は、ただの数字だ。衰えていく健康だのなんだのを、本気で心配してはいない。身体には少し関節炎があるし、背中の筋肉も何本か切れている。普通に年を取れば出てくるものが、ひととおり少しずつ出てきている。それでも文句は言えない。一生のあいだ、持っているものを全部注ぎ込んできたのだから。ここまで生きてきたこと自体が不思議なくらいだ。結局は心の持ちようだ。「もし手に何かあったらどうする? 事故が起きて、二度と手が使えなくなったら?」と人に言われることがある。そういうときは、まあ、足で弾く方法を見つけるよ、と答える。何かをする方法、音を出す方法、音楽を作る方法を見つけて、人々に楽しい時間を過ごしてもらおうとするだろう。
7月27日、あなたはここヴィリニュスの図書館の中庭で弾く——小さく、野外で、近い。人々が実際にあなたの右手を見られるほど近くにいるとき、あのボディの打音もハーモニクスも手品であることをやめ、見ることのできる何かになる。それほど近くで弾くことは、あなたにとって何かを変えるだろうか——ショーのほうへ踏み込んでいくのか、それともただ曲を弾いて、見るにまかせるのか。
ヴィリニュスに戻れるのが本当にうれしい。2011年にバンドと一緒にあの街にいたときの、素晴らしい記憶があるからだ。私にとっては、聴衆に近づけるなら近いほどいい。あなたのすぐ目の前にいたい。あなたの目を見たい。私が弾いているあいだ、あなたのなかで何が起きているのかを見たい。音楽を通してあなたとつながりたいし、できるかぎり最高の時間を過ごしてもらいたい。
7月27日に戻って、あなたに会えるのを心から楽しみにしている——ではそのときに。
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公式サイト: tommyemmanuel.com
写真:Luciano Viti、Simone Cecchetti(アーティスト提供)。このインタビューは、Christopher Summer Festival(ヴィリニュス)の協力によって実現した。
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