ただ賞賛する素晴らしい作品もある一方で、本当に何度も立ち返ってしまうのは、簡単には言葉にできない問いを投げかけ続ける作品だ。ausとして録音し、東京のレーベルFLAUを主宰する日本の作曲家 Yasuhiko Fukuzono による『Everis』は、後者だ。このアルバムは、盗難事件から生まれた。ある音楽家が彼のスタジオ・事務所を空にし、コンピューターから衣服まで全てを持ち去った——ほかのどこにも存在しない、完成した楽曲もろとも。多くの音楽家なら、それを終わりと呼ぶだろう。だが彼は、それを一つの問いとして受けとめた——ある曲の録音が失われたとき、いったい何が残るのか、と。彼は何も作り直さなかった。機械の外に残っていた断片——まだ頭に残っていた旋律、かつて友人に預けたいくつかのファイル、携帯電話に残された日常のビデオ——を手がかりに、彼がたどったのは、失われた音楽ではなく、それがかつて存在していた失われた時間だった。あとはタイトルが語っている。『Everis』——「ever is」という言葉から。
私たちがausに耳を傾けたいと思ったのは、彼の音楽が、私たち Music for Thought が守るために創刊された理念自体を体現しているからだ。作曲家として、そしてFLAUの主宰者として、二十年近くにわたり、彼はありふれた音に、現代の聴取のほかのほとんど何もが与えないような忍耐を注いできた。改札、校庭で練習する学校のブラスバンド、空港——そのどれもが弦とエレクトロニクスのあいだに置かれ、いくつもの種類の時間が同時に鳴っているかのように響くまで。それはもっとも純粋なかたちのスロー・リスニングであり、『Everis』はそれを、これ以上なく深い主題へと向ける——記憶、喪失、そして記録が失われたのちに、一つの瞬間から何が残るのか、という主題へと。
読者にとっては、もう一つ、よりひっそりとした理由もある。リトアニアから綴られるこのジャーナルとして、aus自身がかつてこの地に立っていたことを見過ごすわけにはいかない。十年ほど前、彼は二度ヴィリニュス(Vilnius)を訪れ、聖カタリナ教会(St Catherine’s Church)で演奏している——この街で音楽を聴くのに、これほど美しい空間もそうはない。以下に続くのは、彼自身のペースで、彼自身の言葉によって、書きしるされた答えである。
「いまも在るもの」
『Everis』は、あなたのスタジオが盗難に遭い、完成した未発表の音楽が失われたあとに作られた。あなたはそれを、まだ携えていた旋律と、携帯電話に残されていた録音から作り直した。ファイルが失われたとき、あなたは一つの曲が本当は何であるのかを、どのように見定めたのだろうか——ある曲の録音が消えてしまったとき、そこには何が残るのか。
それは再構築とは全く異なる作業でした。PCやHDD、機材にいたるまですべてが失われましたから。何年にもわたって立ち直れませんでしたが、最終的に私がしたことは、その曲が存在していた時間そのものを、残された断片からもう一度たどることでした。記憶に残っていた旋律や、友人に預けていた音源、携帯電話に残っていた録音は、その時間へ戻るための手がかりでした。
一つの楽曲が生まれた時間には、その音楽だけではなく、無数の出来事や時間が同時に存在しています。ある一瞬というのは、その一瞬だけで存在しているわけでなく、その周囲にあった物事や出来事と互いにその瞬間を支え続けています。私が今目の前に広がる景色を忘れてしまったとしても、その場所にあったものの記憶をたどることで、その景色の輪郭にもう一度触れることができるかもしれません。それは元の景色を完全に再現したものではありませんが、その景色が確かに存在していたことの証明になると考えました。
楽曲の本質は、このアルバムでいえば、その曲が生まれた瞬間に存在していた関係性や、その時間の連続性にあります。音源は消えても、その時間まで消えるわけではない。だから現在からでも、その時間に触れることができる。Everis = Ever isという言葉には、「かつてあったもの」ではなく、「時間の流れの中のどこかに在るもの」という感覚を込めています。このアルバムは失われた作品を再現した記録ではなく、失われたと思われていた時間が、現在にもなお続いていることを確かめるための作品なのです。
その後の方法の変化を、あなたは「創ること以上に、探すこと」と表現している——自分の楽器で丹念に築き上げた音から、見つけ出して編集する既成のプリセット音へと移ったのだ。探すことは、あなたが見いだすものを変えただろうか。偶然に出会った音は、自ら作り出した音とは違う意味を持つのだろうか。
以前は、自分だけの音(そのようなものはもちろんありませんが)を作ることに意識が向いていましたが、最近は一つ一つの音のユニークさよりも、音と音がどのような関係を結ぶかに興味が向いています。同じ音でも、隣にどんな音が置かれるかでまったく違って聴こえる。その関係性の方が大切になってきました。自分でシンセサイザーの音を作る場合でも、既存のプリセットから音を選ぶ場合でも、結局は自分の記憶や感覚を頼りに音を選んでいるわけで、どちらも同じ行為なんです。
もちろん、技術的な変化もあります。機材を盗まれるまで、全てハードの機材を使っていたので、ソフトウェア音源のクオリティの飛躍的な向上に気づいていませんでした。以前なら何時間もかけて作っていたような音に、今ではすぐたどり着けることも少なくありません。その変化を前向きに受け入れた結果、音そのものを作り込む時間よりも、その音をどう配置し、どんな関係性を生み出すかに、より多くの時間を使えるようになりました。
「時間の堆積」
あなたのフィールドレコーディングは、ごくありふれた場所から採られている——改札、コンピューターのキーボード、空港、校庭で練習する学校のブラスバンド——そしてしばしば、それと分からないほどにぼかされている。ある日常の音を、残すに値するものにしているのは何だろうか。そして聴き手には、その音がどこから来たのかを聞き分けてほしいのか、それとも、それと知らないまま感じ取ってほしいのだろうか。
私がその音を残す理由は、とても個人的なものです。Everisで使った録音は、自分の記憶と強く結びついていますが、それをリスナーの方々に追体験してもらうことには興味がありません。興味があるのは、一つの作品の中に複数の時間が同時に流れている状態です。昨日録音した音と十年前に録音した音、あるいは楽器の音と環境音が、それぞれの時間を保ったまま共存しているような感覚。私にとって重要なのは、その音が改札なのか空港なのかではなく、音の正体は曖昧になっても、その時間の堆積がこの作品の中に残り続けるところです。
私にとって重要なのは、その音が改札なのか空港なのかではなく、音の正体は曖昧になっても、その時間の堆積がこの作品の中に残り続けるところです。
「円には終点がない」
あなたはこのアルバムを、絵描き歌のイメージと、「すべての記憶が重なり合う円」を通して語ってきた。その手がかりを知らない人のために——アルバムを一本の線としてではなく、一つの円として組み立てることは、それがどう聴かれることを求めるかを、どのように変えるのだろうか。
最初の質問にも通じる話ですが、日本の絵描き歌は、一つ一つが独立した単純な線、それを描く行為を積み重ねて、一つのオブジェクトが生まれます。しかし最後に振り返ると、それらは最初から一つの絵を描くための要素だったことに気づきます。「Everis」は、フィールドレコーディングやエレクトロニクス、演奏された音など、それぞれは別々の時間や場所から集まった断片ですが、それらを並べていくことで、一つの音楽が作られています。
線は始まりと終わりを持ちますが、円には終点がありません。過去の出来事は過去に閉じるのではなく、現在ともつながり続けています。もし作品を通して、時間が一本の流れではなく、いくつもの時間が同時に存在しているような感覚を受け取ってもらえたなら、それは嬉しいことです。もちろんそれも一つの読み方に過ぎず、聴く人は自由に受け取ってくれればいいと思っています。

「単なる情報ではない」
失われた記憶はいたるところに存在し、現在とつながり続けている、とあなたは語ってきた。音楽は、記憶をとりわけよく宿す。一つの曲は、もはや意識してはたどり着けない記憶を運びうる、とあなたは考えるだろうか——そして『Everis』を作ることは、あなたに何らかの記憶を呼び戻しただろうか。
スピーチセラピストをやっていた時の臨床の現場で、旋律というものが驚くほど深く残ることがある、ということを感じました。もちろん、それがすべての人に当てはまるわけではありませんが、私自身にとっては、音楽が単なる情報ではなく、記憶のあり方そのものと結びついていることを実感した経験でもあります。
このアルバムには、多くの他者の手が加わっている——Kumi Takahara、ヘニング・シュミート(Henning Schmiedt)、ダニー・ノーバリー(Danny Norbury)ら——そしてあなたは、そうした奏者たちが自分のそばにいてくれたと改めて思い出せたことに、意味があったと語っている。音楽の世界の内側から生じた喪失ののちに、他の音楽家たちとともにアルバムを作り直すことは、あなたにとって何を意味したのだろうか。
このアルバムは、失われた時間をもう一度たどる作業でしたから、当時親交のあった人たちと一緒に制作することには、とても大きな意味がありました。彼らもまた、その時期の自分の記憶の一部であり、もう一度その時間を見つめ直すのであれば、その時間を共有していた人たちと作りたかったのです。
「鳴らない部分まで音楽になる」
『Eau』であなたは、長年キーボードとエレクトロニクスを手がけてきたのちに、箏(こと)を中心に音楽を組み立てた。伝統的な日本の楽器へとあなたを引き戻したものは何だったのか。そして箏は、あなたのいつもの音のパレットには語りえない何を語りうるのだろうか。
『Everis』の反動もあって、できるだけ音数を減らしたシンプルな作品を作りたいと考えていました。箏に興味を持ったきっかけは、サウンドデザインの仕事で和楽器を扱ったことです。実際に箏と向き合ってみると、糸から直接立ち上がる音や、引き色によるわずかな音程の揺れ、そして音が長く残らないことに魅力を感じました。その減衰の性質は、これまで自分が作ってきた電子音楽とはまったく違う時間の流れを持っていて、音が消えていくことや、鳴らない部分まで音楽になるような、その感覚自体が新鮮でした。
「けっして0ではない」
評価がとぼしいときでさえ、自分が作るべきものを作り続けていれば「世界のどこかで誰かが見つけてくれるかもしれない」と、あなたはかつて語った。それは、静かな一種の信念だ。それはどこから来るのだろうか——そして、その信念は報われてきたのだろうか。
自分の活動、特にレーベルを通してオルタナティヴなものに光を当てたいと思っていますが、それは小さなものに単に光を当てる、ということではなく、複数の世界が同時に存在していることを認めるプロセスだと思っています。すべてのものは少しずつ影響し合っていますし、一つの作品も、人との出会いも、小さな出来事も、どこかで別の何かにつながっている。その影響はとても小さいかもしれませんが、0ではありません。世界のどこかで誰かが見つけてくれるかもしれない、というのは、楽観的な希望ではありませんし、自分を励ますための言葉でもありません。ただ、世界はそうやってつながっているものだと考えている、ということです。

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レーベル: flau.jp
写真:木村和平(Kazuhei Kimura)、三田村亮(Ryo Mitamura)。アーティスト提供。
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